● クリニック内美術品などを寄贈してくださった方々

かすやクリニックは多くの方のご協力を得て、診療にあたっております。
お世話になっている皆様


王 小燕先生

広州美術学院教師・燕和会中国画会長・東京芸術大学加山叉造研究室 
かすやクリニックに最も多くの水墨画・書・版画などを寄付していただいております。牡丹は中国の国花ですが「心に力を与え強くする。心を暖かくする。」という意味があります。「クリニック開業祝」として先生に描いていただいたのはその牡丹で、絵は患者さんがご覧になり身体的健康だけでなく「健康で、安寧な心情」になっていただけるよう待合室に飾ってあります。先生の水墨画教室http://www.jaca-culture.jp/ginza/suiboku.html#sub_01には各界の多くの著名人が参加されていますが、既に作品を販売されている程の名手もいらっしゃいます。
先生のご招待で昨年(2007年)は中国の迎賓館「釣魚台」(六ヶ国会議の開催された最も新しい外務省館)に2泊してきました。オリンピックを控え、北京は活気に沸いていました。また、人民大会堂にも大会堂所長の直々のご案内で、一般開放されていない特別室も見て回ることができました。各室の絵画・装飾は、「さすが中国5千年の歴史」と感じさせるものばかりです。また、各国元首と胡錦濤胡国家主席の会談に使用した椅子のすわり心地は、「かすやクリニック」の待合室のソファ−に勝るとも劣らない(??)ものでした。2008年には中国オリンピックを記念すべく中国美術館で開催された世界女流画家100選のお一人にも選ばれました。
某有名保険会社本社重役室にはシャガールの原画の横に、若き頃の先生のお書きになった絵が飾られています。若き王先生は、このような扱いに当惑していたそうですが、既に中国の歴史的巨匠として名声を得ていたお父様は「大丈夫、あなたの作品はあの絵と同じくらい価値がありますよ。」と励まされたそうです。
先生は、生涯弟子をとらないことで有名な日本画の巨匠 故・加山又造先生のお気に入りの弟子に当たります。「中国古来の水墨画に日本画の手法を取り入れてみたい。」と、中国上流社会での約束された生活を捨て、26歳で東京芸術大学へ単身留学に踏み切った精力的な姿勢に加山先生も心を動かされたのでしょう。今では、芸術業界、一流企業社長・会長、各中国文化愛好者と交流の多い先生ですが、若い無名な中国人芸術家の日本での生活は、それなりのご苦労があったようです。その中でも佳作を少しずつ続けた先生の姿勢は、現在の私たちの在り方にも示唆を与えてくれるように、私には思えます。今や、失われつつある「大和魂」や「武士道」といった精神世界を、かつては多くの日本人が「当たり前のもの」として共有していたわけですから・・・。
クリニックにある私の肖像画も王先生の作品ですが、寡作な先生の肖像画は稀なもので、加山又造先生像、土屋前埼玉県知事像、相撲の小錦関像などだけで、名誉に感じています。先生には及びもしませんが、私も「誰がなんと言おうと、失ってはならないものがある。」ことを忘れないよう、先生からいただいた優美な絵画や書をクリニックに何点か飾らせていただいております。(お父様は中国画の第一人者で、中国人間国宝 王 子武先生です。)


王野百合子氏

知る人ぞ知る才色兼備のスーパーレディーです。
人気番組「なるほど!ザ・ワールド」の2代目レポーターでもありました。 20代で「JALワールドプレイガイドhttp://www.jalworldplayguide.comグループ長」となり、現在、「国境なき合唱団 事務局長http://www.jalbrand.co.jp/dai9/ 」「渇、カンパニー 代表取締役社長」と精力的にご活躍です。 お兄様(渡辺健一氏:有名な構成作家。人気番組「ウゴウゴ・ルーガ」などを製作)が私の中学からの同級生で、ずっと家族付き合いさせていただいております。今もお元気なお母様は、かつて銀座を闊歩したキャリアウーマンの走りといえます。

杉原光昭先生http://www.sugiharasusuki-law.jp/

弁護士 平成12年度横浜弁護士会副会長 横浜国立大学ロースクール教授(弁護士と兼任)  
小学校から高校までの同級生で、現在も、家が近いこともありしばしばお会いします。お父様・お兄様は共に横浜弁護士会会長を勤められ、お母様はかつて「婦人画報」の表紙を飾られた、お優しい才色兼備の方でした。ご一家は神奈川県の弁護士界では「弁護士貴族」といわれています。  
もう、30年以上前の話になります。高校時代文科系志望だった私は、彼と一緒に法学部を受験しました。しかし、こともあろうに二人ともそろって不合格となってしまいました。高校3年生のとき、駿台予備校の模擬試験で全国1位だった彼がまさか不合格になるとは誰も思っていませんでした。ですから、入試が終わって遊びに行く予定のあった私は、彼に私の試験結果の発表をついでに見ておいてくれるよう依頼したのです。真面目な彼は「一緒に行った友人とも確認したが、2人とも不合格らしい。」と電話で私に伝えてくれました。それを信じた私は、自分で試験発表は見にいかず、予定通り遊びに行ってしまいました。その結果、現在、私はなぜか医師となっているわけです。ところが最近、彼は酒の席では決まって「実はあの時、君だけ受かっていたが、不愉快なので君も不合格ということにした。」と冗談を言うのです。(笑)

狩野昌央氏

NetRatings Japan Inc.(The Nielsen Company)http://www.netratings.co.jp/ CEO  杉原先生、狩野君とは私の中学・高校と同期生で、3人はお互いの長所を活かし、良く助け合う仲と言えましょう。私達のよき理解者である奥様は、まだ血の気の多い我々の良き指南役でもあります。  
狩野氏は、かつて孫正義氏のもとで様々な事業企画を推進していましたが、15年前、ソフトバンクを離れました。彼自身もソフトバンクでの仕事を楽しんでいたそうですが、独立の決意を変えることはありませんでした。様々な会社の経営経験を積んだあと、約10年前に設立した現在の会社NetRatingsはネット業界の「お金の価値」を決めるkey的な会社です。たとえば「Yahooの ホームページに広告を出す場合、どれくらい価値があるか」という指標を出しています。当然、閲覧頻度の高い、誰もが見るサイトでの広告やリンク作成は価値 が高く、閲覧する人の限られている「かすやクリニック」のホームページを広告媒体として考えるのは、広告主から見た場合、かなり難しいということになります。NetRatingsはインターネットの使用頻度の少 ない人も含め、日本国内では、2万人以上の人に直接承諾を得て、彼の会社で開発したソフトを自宅のパソコンにインストールしてもらっています。その人達のインターネット閲覧状況はこのソフトを介して自動的に彼の会社の集計サーバーに送付されるため、客観的かつ合法的な広告価値の推計を統計学的に算出することができるわけです。その仕事を開始した彼は、当然ながら世界に視野を広げる実業家になりました。一方で、銀行などの情報処理のSecurity関連にも造詣が深く、通産省や総務省のインフラ整備事業ほかで、委員としてNTTなどを相手に盛んに、活躍されました。  
クリニック開業前の余った時間で、Stanford大学医学部で暫く研究でもしようと考えていた私は、学会で来日したStanford大学医学部F教授に知人を介しお会いし、「2ヵ月後にDr.Kasuyaのdeskを用意しておく。」という約束を取り付けました。 しかし、どうもメールの口調がおかしいので訊いてみると「3ヶ月は短期間過ぎてまずいようだ。2年なら可能だ。企業のグラント(寄付・研究協力金)で研究室は動いているので、仮に先端研究の内容だけ日本に持ち帰られてしまうと、企業との契約に違反する。また、大学の校則でも1年以上で無いと職員課・学生課に申請できないらしい。」ということがわかりました。  口頭とはいえ、多くの医師の前で交わした約束を反故にされた私は、即座に狩野君の知人を通しStanford大学工学部へのIT関連のグラントを減額させるようSilicon Valleyから圧力をかけるよう依頼しました。それが関係したとは思いませんが教授は大学学生課、人事課に何度か交渉に行ってくださり、誠意を示してくれました。
Stanford大学はSan_Franciscoに近いPalo Altoという町にあります。ここは極めて瀟洒な町で、町を行く人達の「余裕」はこれまで私の行った世界の100近いどの町にもないものでした。教授に会いに大学の研究室に行った際、2週間近くほとんど私と行動をともにしていただいた八木氏(米国Nielsen専務取締役)は、「オーストラリアで発生した技術者の雇用問題のテレビ会議が夕方(オーストラリアの昼間)から会社であるため2時間ほど失敬する。」と毎日2時間だけ仕事をしていました。彼に「この街はとても気に入ったが、住むとなると、どのくらい収入が必要か」尋ねたところ「最低2000万円程度」とのことでした。当然といえば当然ですが、私には到底望むべくもなく、不眠・不休の医師生活を選んでしまった愚を、今更ながら嘆いたものです。 しかし、日本の青山や銀座は勿論、住宅街の世田谷辺りよりもベンツやBMWといった高級車は少なく、また高級車であっても長く乗っているものでした。そこでは「車は単に車」であり、どの店でも良質な、品のよい味の食事が食べられるのですが、それでも単に「食事」でしかないのです。ITも同じです。車や食事、IT業界のブームに、安易に踊らされてはいません。  
Harvard大学やMITのある東海岸と異なり、西海岸は大学も含め「猛烈」ではなく、むしろ「のんびり」成果を残すことを美徳としているそうです。京都と東京で大学間の校風が違うのと似ていますね。上記、F教授は幼い頃からのSan_Francisco育ちであり、fly fishingを愛する、典型的なSan_Franciscoっ子タイプです。Palo Altoを知っただけで、約束が反故になってしまったことも帳消しになってしまいました。

玉田 勇 先生
http://www.ne.jp/asahi/tamada/isamu/
http://www.asahi-net.or.jp/~YT8I-TMD/
http://www.tamaphoto.com/
写真家 日本大判写真協会会長、 元・日本写真家協会理事、元・皇室写真家、元・日本写真芸術専門学校専任講師(校長・秋山庄太郎時代の21年間) 
かつて、長嶋茂雄、故・田宮二郎、故・岡本一平/岡本太郎父子などの有名人、故・元内閣官房長官木村俊夫、福永一臣氏などの政治家との親交があったり、昭和天皇、今上天皇の皇太子/美智子妃時代・両殿下やご一家のお写真などでTV番組でも有名になってしまいましたが、中学から大学までの無二の親友(悪友?)のお父様で、長く家族付き合いをさせていただいております。現在も現役の写真家として、また、日本の写真技術全体の指導者としても活発に活動されており、今年(平成20年)3月には10年以上主催された日本大判寫眞家協会の写真展を東京都美術館で『日本大判写真展』2008東京展として開催されました。(この写真展は2009年2010年も3月7日から12日まで東京都美術館で開催されます)。  著名人の多い先生の門下生(60才以上の方が多いのですが)の作品の完成度の高さには、いつも驚かされます。かつて、写真展にいらした森山真弓先生(元・文部/法務大臣、官房長官。展覧会は毎年環境省の後援で開催され、森山先生は毎年来場されています。)と、まだ若輩の私が、初対面にも拘らず1時間以上もお話しする機会を与えていただいたのも、この展覧会でした。
1978年、先生が48歳のとき、「太平洋ひとりぼっち」で知られるヨットマンの堀江謙一氏とともに北極へ写真を撮りに行かれたことは報道特番で大々的に取り上げられましたが、現在でもカナディアンロッキーで1年の半分近くを写真撮影に費やす、永遠のロマンティストです。  
かつては故E・H Erick氏が所有した歴史的な名艇(ヨット)「K-7・1世号」や「同2世号」(レースでは石原慎太郎・現都知事が所有されているヨット「コンテッサ」の宿敵でもありました。因みにご令嬢は「コンテッサ」の元クルーでした。)にも乗っておられました。
全く衰えを知らない鋭い観察力・好奇心・体力・熱意とユーモアに接していると、「一体、どうすれば、そして、いつになったら自分は先生のようになれるのだろう…」という気持ちになりますが、「自分には永遠に無理だろう。」と相手に思わせず、「必ず先生に追いつこう。例え、自分が90歳になっても100歳になっても。」という強いパワーを与えていただけるのが、多くの有能な方との玉田先生の大きな違いです。それが先生の真の偉大さだと思います。そのため私はご迷惑にも拘らず、突然ご自宅にお邪魔するのです。

 
 



Copyright(c) KASUYA CLINIC. All rights reserved.